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私たちの追跡 Vol.17
先日 Ap bank fes 21 online liveがあった。
ap bankは2003年に音楽家の小林武史、ミスチルの櫻井和寿
に坂本竜一の3名で設立されたもので、
「サステナブル」というコンセプトを独自の視点で捉え、自然エネルギーや環境保全活動をしている方々への融資や
野外音楽イベントap bank fesの開催、復興支援活動などのさまざまなプロジェクトを立ち上げ、発展的に継続している。
apとは「Artists’ Power」と「Alternative Power」のAP。
音楽を通じてあらためて、自然や地球環境、自分以外の誰かとのつながりを想像する時間は、
とても気持ちのいい時間だった。
さて、今回は古代の自然観についての追跡から・・・
古代ギリシャの自然観はどこか共感できる部分がある。唐草模様というアラベスクがシルクロード経由でつながっているように、他にもっと共感できることがある気がする・・・
西洋と東洋の自然観の違いについては様々な方が語っているが、先日読んだ翻訳家、環境ジャーナリストの枝廣淳子さんの話は面白かった・・・・
「・・まず日本人は”人間は自然の一部”という意識。
例えば通訳やっていたときによく思ったんですけど、概念がないと通訳ができないんですね。
環境関連の国際会議に出てて、アメリカ人がよくいうのは
”スチュワードシップ”っていう言葉で。それは、執事とか管財人っていう、お屋敷の面倒をみることを主人から委託されている執事のことをスチュワードっていうんですけれど。
キリスト教のバイブルにもあるように「神が人間に自然の世話をするように頼んだ」と。
なので人間は地を支配してるっていうのがバイブルにもあるんですけど、
人間が自然の世話をする、もしくは人間が自然を支配してるんだから自然を傷つけてもいいというメンタリティ。
日本もしくは東洋はそうじゃなくて、日本だけじゃなくて中国古典にも「すべてのものは同じである」という思想がある。
あとこれも通訳で訳しづらくて困ったんですけど、例えば「生かされてる」って日本人はよくいうんですよ。
英語で「生かされてる」と言おうと思うと「by~」、例えば「神によって生かされてる」そうしないと座りが悪いんですけど、
日本人が「生かされてる」っていうのは別に特定の何かに生かされてるって言ってるわけじゃなくて、様々な命の、
網の目の中に自分が存在させてもらってる感覚なんですが、それは英語にはできないっていうか、
アメリカ人にはわからないっていうのがあって。だから「人間は自然の一部だ」ということは、東洋から西洋にもっと強く発信しなきゃいけないと思うし・・・・」
そんなインタビューの記事だった。
同じ自然という概念でも、時代や国、信仰などによってさまざま捉え方があり、その捉え方の違いにより、考え方や問題意識が変わってくる。現代のようなアスファルト、コンクリートやビルの社会と違い古代の世界では社会そのものが自然からつくられていた。昔は道路はもちろん土だから埃もたつ。少し前まで日本の田舎の道は裾が汚れると言われたらしい。
古代ギリシャでは自然は「生きたもの」として捉えていた。ギリシャ哲学者の始祖タレースは万物が「水」からできているとはじめて考えた。水と食物によって土地の質が自然に健康的であるか健康的でないかということを知ることができる。
だから建築家は、その土地の自然環境を観る手立てをもっていることが大切だと考えていた。例えば、そこの土地で飼われている豚を殺して肝臓の症状を検査する。水と飼料からくる肝臓の状態が健全で丈夫であることが証明された時はじめてそこに砦を築くことができる。
そうではなく、肝臓が青黒く悪いところがあれば、その土地の水や飼料が悪いことわかるから、そこに住むことは病気になる事を意味する。古代の建築家は自然環境を熟知した上で鋭い洞察ができることが条件だった。
日本でも宮大工の西岡常一さんの話は興味深い。
「子供の頃畑や田んぼをやったおかげで”土の命”がわかるようになった。そして林業を学び
山の買い方がわかるようになる。山の南向きで育った木、北向きで育った木ではそれぞれの癖がある。その木の癖を見抜けるようになると、適材適所に配置できる・・自然というものは全て「癖」があるから、そこを見抜けるようにならないと棟梁は務まらない・・
そして大工職人にもまた「癖」がある。人によっていろんな「癖」があるが、棟梁は職人と同じ目線で技術を見たらいけない。俺の方が上手だと思ってしまう。それでは職人が生きない。
棟梁の心構えとしてこんな言葉があるという。「百論をひとつに止めるの器量なき者は慎み惧れて匠長の座を去れ」職人を一つにまとめられなかったら、自分に棟梁の資格がないんやから自分から辞めなさい・・
棟梁でなくても、人に影響を与える立場にいる人には教訓になる。
古代の人や。昔の職人は人間も自然の一部だということが実感できる生き方をしていたのだと思う。自然はさまざまなものを与えてくれると同時に、厳しく、癖がある。人も自然の一部だと感じるからこそ、人を使うには心構えが必要で、木を見るのも、人を見るのも、自然を見極めることは難しいと理解していた。
こういった自然から学び取った哲学は、”創る”ことの要諦になる。
創ることは、美に向かっていくこと。美とは調和で、調和は自然から生まれる。
どんな仕事でも、”自然”と向き合い何かを生み出すという仕事は、それだけでかけがえのないことのように感じる。
冒頭で書いたap bank fesで必ず歌われる中島みゆきの「糸」の歌詞が思い浮かぶ。
織りなす布は いつか誰かの 傷をかばうかもしれない
縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に出逢えた時 人は仕合わせと呼びます
自然には常に偶然性があって良し悪し両方があると思う。
そんな中だからこそ、希望を感じる出逢いは自然で、仕合わせを感じるのだと思う。
かけがえのない自然・・・・
その人合った自然をつくることに夢中でいたい
続く