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私たちの追跡 Vol.34

先日駐車場でなんとなく視線を感じるなあった思って振り向いたら、

人は誰もいない・・・

 

なんか気配が感じると思っていたら・・ニャ~〜ン・・・・・

 

猫が並びの車の下に隠れていたのだった・・

 

ちょっと気になって、ある程度まで近寄ってみると、パッと逃げて、隠れながらまたこちらを見てくる。

 

距離感を調整しながら、近寄ったり、隠れたり・・・・お互いの存在になれて来たと思い、距離を縮めるとまた逃げる・・・

 

ソーシャルディスタンス(社会的距離)を提唱したエドワード・ホールの話しを思いだす・・・・・

 

動物たちの多くは敵や人間がある程度近づくまで逃げようとしていないということがあるという・・・

最初はゆっくりと動いたり、あるいはじっとする。

そしてかなり相手が近づいてから、バッと逃げるか攻撃してくる

これは動物に逃走距離や臨界距離があることを暗示すると言われている。

 

 

 

 

 

そしてそれは人と人との間でも同様にあり、人間のコミュニケーションにおいて重要だという。

 

 

距離の取り方や縄張りゾーンに通じ、

目に見えない何かの次元が体の外にある・・・

 

 

「かくれた次元」という面白い本を書いた文化人類学者のエドワード・ホールは

これらの隠れた次元をまとめて「プロクセミックス」(proxemics)という造語をつくった。

 

 

少し難しい言葉だけど「文化感覚距離」というような意味で、人の文化の奥には

この「プロクセミックス」がひそんでいるということ語っている・・

 

 

そして、これがわかることによって、人間関係をつくる文化の感覚が見えてくるという・・

 

 

例えば、、日本では手をこういうふうに(右手を上下にひろひろさせて)手招きすると、

「こっちへ来なさい」「おいで」という意味になる・・

だけど、同じことをアメリカでやると・・・「あっちへ行け」「出て行け」という意味になるという。

 

指で数を数えるときは、日本では広げた指を親指から閉じていって「1、2、3・・」と数えるが

アメリカでは逆に最初に全部の指を折って、親指から順に広げる・・

 

日本が引き算的だとすると、アメリカは足し算的。

こういうところに文化感覚というものがひそんでいる。

 

 

最近見ていた、アメリカのドラマで感じたのは家族や夫婦、親子との距離感が

手を取り合う距離だということ。

 

ソファーの上で日常的に、手を取り合いながら話し合うシーンはアメリカのドラマでは自然だけども、

日本のドラマではわざとらしく感じると思う・・・・・

 

 

大統領でも労働者でも、立場や人種によらず、家族との親密距離は共通するものだということを感じる・・

 

 

また、”未来を考えた時の子供の成長”に対する文化感覚の距離も共通している感じがする。

未来を考えた時、何よりも優先するべきは子供や若い人たち・・

 

だからコロナになったばかりの時に、欧米特にヨーロッパでは医療の逼迫時に、高齢者の方たちが若い人を先に診るような言動が出てくる。だけどこれは、儒教的な特色のある東洋ではちょっと違ってくる・・・

 

 

こういったことは、天秤に掛けない次元での「絶対的な感覚」として存在している・・・

 

こう言った絶対的な感覚のような、ある意味での偏りが、文化をつくっていくのだと思う。

 

 

 

 

ここ龍ヶ崎に来て、今までにない”文化感覚への距離”を経験したのは

ご高齢の農家のお客様のパーマ・・・

 

パーマの目的は農作業するときに

”タオルが落ちないため”にかけるからできるだけキツく、グリグリに・・・

 

 

もちろん自分でブローするでもなく、手入れがしやすい訳でもなく、要はタオルを巻いた時の滑り止めの

機能のためのパーマ・・・

 

こちらに来たばかりの頃は”理解し難い感覚”だった。

 

 

だけど、ある年の早朝に広大な田んぼで田植えをする一人の

おばあちゃんの姿を見た。 同じようにタオルを頭に巻いていた・・

 

その姿はとても気持ちがよく、尊い感覚を感じた・・

 

 

 

 

 

 

 

 

長い間、体験というものは全て人間にとって共通であり、言語とか文化とかを飛び越えて体験に訴えるなら他人を理解することは可能だと信じられてきた・・

 

 

もし二人の人間が同じ「体験」をもっていたとすれば、二つの脳は同じような記録をするだろうという仮定に基づく・・

 

だけどこの50年前のエドワード・ホールの文化感覚(プロくせミックス)は疑問を投げかけてくれた・・・・

 

 

異なる文化に属する人々は、違う言語を喋るだけでなく、ちがう”感覚世界”に住んでいる。

そしてその感覚世界に対する距離感も人によって違う。

 

 

だから先の田植えのおばあちゃんの姿を見たからって、他の人が尊いと感覚するかはわからない・・

感覚情報を選択的にふるいわける結果、あることは受け入られ、それ以外は捨てられてしまう・・

 

 

 

そのため、ある文化の型の感覚的スクリーンを通じて受け取られた体験は、

他の文化の型のスクリーンを通じて受け取られた体験とはまったく違う感覚とつながる可能性がある・・・

 

 

美容室やヘアデザインはそう言った”感覚言語”として、一つのコミュニケーションの媒体(メディア)であると思う。

 

 

だからこそ、そのデザインに隠れている文化感覚をイメージできたり、

人とのコミュニケーションによって知ったりできる感覚が「かくれた次元」として磨いていく必要があるのだと

思う・・

 

分かち合う、理解する。

お互いの既成概念ををなくすことで、かくれた次元は見えてくる・・

 

そういった相互理解のコミュニケーションには

文化のような感覚のコミュニケーションが隠し味になる。

 

 

追跡していきたい・・・・

 

 

 

 

 

続く