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私たちの追跡 Vol,39

休日に久しぶりに立ち寄った雑貨屋さんで、先輩らしき人物に

商品の説明を受けている若い女性がいた・・・・

 

お彼岸も過ぎると、少しずつフレッシュな人たちが働きはじめているのを見かけ、

そういった新鮮な光景を見るたびに、初心をおもう・・・

 

 

何かを始めようという初期衝動のエネルギーは、10年経っても、20年、30年・・・経っても

持っていたい・・

 

 

美容をはじめたばかりの春の頃に、”ドイツのバウハウスという造形学校”の存在を知った・・

 

 

 

そこに書いてあったのは、「サッスーンのヘアカットはバウハウスから影響を受けている・・・・」

そんな風な記事だった・・・・・

 

まだインターネットもない時代、たった数行の文章に想像力をふくらませた・・・

 

今ではすでに閉店している、新宿三越アルコットにあったジュンク堂と

広尾にある東京中央図書館には、バウハウスについてのいろんな書籍があった。

 

 

バウハウスが生まれた背景には、当時の理性第一の合理主義を見直し、人間のあり方、

生活の在り方を問い直して、社会性や倫理性を追求しようという姿勢があったのだと思う・・

 

 

産業革命以降、機械生産による粗悪な工業製品が多く出回り、機械化による大量生産に異を唱え、

中世の手仕事に回帰しようというアーツ・アンド・クラフト運動がイギリスで起こっていた・・

 

その影響は20世紀はじめにドイツでも起こり、バウハウスへと続いていった・・・

 

総合的な芸術教育をいかに行うべきか?と言う体系だった教育方法を模

索したバウハウスは、創設者のグロピウスをはじめ

 

グロピウス

 

 

カンデンスキー、パウル・クレー、・・・・・

 

カンデンスキー作

 

 

クレー作 1922年

 

そこには最高レベルの知識と技術を持ったエキスパートたちが集められた・・

 

 

1930年に、日本からバウハウスに学びにいった山脇 道子さんは

バウハウスで学んだものは、感覚と理論と技術の裏付のある「ものを見る眼」であったという・・

 

それは単にものをつくるだけの眼ではなく、人の実生活の中にある、現実に生かされた

人に対しての心だったという・・

 

そういった精神は学長となったグロピウスの存在が大きいかったと言われる。

 

建築家であったグロピウスは、身体の不調のせいで、製図作業ができず苦労した。

 

自分一人では、建築家としてのキャリアは築けないと感じていた彼は、早くからチームで行う

コラボレーションの重要性を認識していた。

 

多様性を重んじる文化を実現しようとしたそのフィロソフィーは、

異質な人々が協働する場だったバウハウスの設立理念に流れていった。

 

 

常に社会課題に取り組み、哲学者、教育者、ヒューマニストだったグロピウスが大切にしたのは、

人間を重んじて他者の視点に共鳴しようする、エンパシー(共感)の心だっった。

 

 

はじめてバウハウスを知ってから、今も変わらず共感しているのは

人を中心にした教育やデザインへの考え方だったのだと最近あらためて思う。

 

 

第二次世界大戦により、閉鎖を余儀なくされたバウハウスの精神は世界中に散らばった。

 

 

ドイツを離れた教授陣や、リーダーシップをとっていたマイスターはアメリカに亡命し、

その後シカゴに「ニューバウハウス 」が設立され、のちに現イリノイ大学では

ミース・ファン・デル・ローエ(バウハウスで校長を務めた)を建築学部長として、

ハーバード大学の建築学科の教授にグロピウスと、

バウハウスの理念に貢献した・・・

 

 

人間を大切にする社会を目指したバウハウスの思想は、戦後アメリカで「デザイン思考」へと発展していく

流れをつくった・・

 

アートとテクノロジーを融合させた「人間中心のデザイン」を謳うその理念は、

現代のイノベーション(技術革新)が集まる、シリコンバレーに影響をしていると言われている・・・

 

 

目の前にあるスマートフォンやテクノロジーが生まれる背景には、

バウハウスやその精神に感化された人たちによって世代を超えてつながっってきた。

 

世界を取り巻く環境が、かつてないほど大きな変革期を迎える中で、

予測不可能な状況に直面している現在・・・

 

だからこそ、問題の本質を見極めて、解決案やオプションを発想したり

これまでとは全く違う視点で物事を捉えたりする創造性を発揮できる

人間になる学びや技術革新を追求していくことを忘れないようにしたい・・・・

 

 

 

 

続く