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私たちの追跡 Vol.42

水戸の偕楽園180年を記念して先月

「チームラボ偕楽園光の祭」が開催されていた。

 

 

 

チームラボに興味を持ったのは、その考え方やアプローチの仕方。

 

そうした表現が生れる背景には、出身である徳島と東京で抱いた疑問と思索があったという・・

代表の猪子さんはこんな風に語っていた。

 

 

「徳島にいた高校生の頃テレビ画面に映っている東京は、

自分の肉体がある世 界と連続しているようには感じられなかった。

 

 テレビの向こう側の世界を、 境界の向こう側の世界のように感じてしまっていたのだ。

頭で考えれば世界は連続し ているはずなのに、 なぜそう感じられないのだろうか。 

 

あるいは、子どもの頃から大好きだったマンガの対決シーンでは

見開きのコ マで向かい合っているはずの登場人物同士が、 両方とも読者のほうを向いている ことがある。 

 

これはカメラのレンズで切り取った場合にはあり得ない見え方。

でも子ども心には、マンガのコマのほうがイマーシプに感じられた。

 

つまり、 登場人物たちが戦っている世界に、 自分が本当にいるような気がする。

どうして だろうと思った。

 

もうひとつ疑問だったのは、 山や森の景色をカメラで撮ると

 写真に現れる像 が、 自分が体験·体感した風景とあまりにも違っていたこと。 

 

森の中を歩いて、 森に没入し、 森と一体化して 「美しい」 と思った瞬間を切り取ったはずなのに

実際にレンズが切り取った景色はまったく違う。 

一体なぜなのだろうか・・・」

 

 

 

少し前の時代なら誰にでもあった、自然を通じて感じた身体性や

子どもの頃体験した感覚を自分なりに模索し続けていることがすごく共感できる。

 

 

チームラボのような現代アートが面白いのは、時代性によって生まれる主観的な考え方と技術革新により、

今まで見ることができなかった表現方法に出会えることだと思う。

 

そしてしっかりとした古典的な態度と独自の自然観や倫理観があることが、

その表現を支えているのだと思う。

 

 

彼らは西洋的ではない日本的な自然観を大切にしつつ、日本画の空間認識を主観的に捉えながら表現している。

 

 

だからこそ今、世界中で反響があるのだと思う。

 

西洋的な自然観は自然と人間が対立的で、人間が中心になり、

対する東洋や日本は自然が中心になる。

 

 

こうした自然観の違いは何故起きるのか?

追跡していきたい。

 

 

 

続く